駄文7

 病院を抜け出してから、どれほど経っただろうか。

 もう何時間も走っているはずなのに、世界は闇に包まれていた。闇雲に動かしてきた足が、休んでくれと請うている。酸素が足りずまともに動かない頭が、一旦止まれと叫んでいる。激しい拍動を強いられた心臓が、痛い痛いと悲鳴を上げる。

 体中から聞こえる声を無視して、足を動かし続ける。もっと早く走らなければ。そう考え、速度を上げようとして。


 足がもつれた。

 世界が横倒しになる。
 目を閉じる。
 早く逃げなければ。
 そう思っても体は一向に動かない。
 頭は別のことを考え出す。 
 
 自分は何から逃げていたのだろう。
 
 回らなくなった頭で、必死に思い出そうとする。
 
 自分は何から逃げていたのだ。
 何だったか。
 何から逃げていたのか。
 何かから逃げていたのか。
 何からも逃げていなかったのではないか。
 何からも逃げていなかったのだ。

 

 音が鳴る。大きな音。
 
 目を開ける。

 ああ、そうだ。

 逃げていたんだ。

 眼前に迫る『ソレ』を見て理解した。

 そうだ、オレは―――――――
 


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―――――

 

 「ダメだな…。」
 薄暗い部屋の中、キーボードを叩く音が止む。液晶が放つ人工的な光に顔を照らされた男が、椅子を引いて立ち上がる。腰に手を当て伸びをすると、パキパキという小気味の良い音と共に、開放感が体に広がる。眼鏡を押し上げ、空になったマグカップを片手に持ち、男は部屋を後にした。

 
 「どうしたもんかなぁ…。」
 とうの昔に飲み飽きたインスタントのコーヒーを戸棚から出しながら独り言ちつつ、物語の先を考える。ダイニングの壁に掛かった安っぽい時計が、一定間隔で時を刻む。ふと、男の手が止まる。気分転換に夜風にでも当たろうか。そう思った男は、用意しかけていたコーヒーを片付ける。ついでに缶コーヒーでも買えばいい。


 玄関を出ると、秒針の音は聞こえなくなる。真夜中の街は寝静まり、男の足音だけが世界を乱す。錆び始めた階段を下り、無骨なアパートを出る。立地が悪く人通りの少ないこの土地は、最寄の自販機まで行くのにも少し歩かなければならない。つま先で地面を蹴り、コートを搔き合わせると、男は自販機を目指して歩き出した。

 

 普段であれば、歩いているときは大抵物語を構想しているものだが、気分転換のために外に出たのだ。物語の続きを考えるというのは少し気が引ける。さて、どうしたものか。

 

 ふと、男の頭に疑問が浮かぶ。

 
 私は何故小説を書いているのだろう。

 
 足を止めずに考える。

 

 そもそも私はいつごろ小説というものに触れ始めたのだったか。物心着いたころには既に本を読んでいた気もするが、それが小説だったかは定かではない。両親に聞けばわかるだろうか。いやいや、そんなことは重要ではない。小説を書き始めたのはいつだっただろうか。まだ学生だったころなのは確かなのだが。
 まあ、つまりはずっと昔ということだろう。友人に見せ、酷評を受けたことは未だ記憶に残っている。あの原稿はどこにやったのだろうか…。
 しかし、私は今まで、作品を評価されたことがあっただろうか。外向的な性格とは言えないため、人に見せる機会は少なかったのだろうが。うん、やはり、評価された覚えはあまりない。では何故、私は小説を書いているのだろうか。
 
 そこまで考えて、男は自分が自販機の前にいることに気付く。気づかぬうちに目的地についていたようだ。財布を取り出し、硬貨を投入する。カフェオレのボタンに手を伸ばしかけ、思い直して一つ右を押す。やかましい音をたてて落とされた温かいブラックコーヒーを片手に、来た道を引き返す。

 手の中で転がしつつ缶を開ける。男の鼻腔にカフェオレよりも濃い香りが入り込む。口に運ぶと、意外なことに思っていたほど苦くない。
 

 昔は苦くて飲めなかったが、私も大人になったということだろうか。
 

 そんなことを考え、一息ついて思考を戻す。

 

 ええと、何を考えていたのだったか。

 私は何故小説を書くのか、だったかな。私にとって自分の作品とはどんなものかを考えてみようか。完成させた作品は多くはないが、参考程度にはなるだろう。原稿はどこにやったかわからなくても、内容は鮮明に思い出せる。それこそ何十日、何百日と掛けて創ったものだ。どんな世界であるのか、どんなことが起こるのか、どんな命があるのかを。何度も何度も行き詰まり、消しては書き、消しては書き。そうやって、頭を捻って完成したのが、私の作品たちだった。

 

 男はコーヒーを一口煽る。
 
 それにしても、私はどんなときに小説のことを考えているのだろう。食事をしているとき、歯を磨いているとき、風呂に入っているとき、こうして歩いているとき…。改めて振り返ると、四六時中小説について考えている気がする。気取るわけではないが、私も一種の作家病を患っているのかもしれない。日常を送る中で、いつでも小説の題材にできそうなものを探している。ニュースで報道している事件、日常の中で体験すること、行く先々で出会う人々。そういった中で新たな題材を探し、満足の行くものを見つけては構想を練る。いつまで経っても形にならないものもあれば、筆が乗ってすぐに完成させるものもあった。どちらにせよ、私はいつでも小説のことを考えているらしい。それにしても物好きなものだ。評価もされないのに書き続けるとは。


 いやまて。


 これが答えじゃないのか。

 
 好きだから、小説を書く。

 

 ただそれだけか。


 単純な答えだった。余りにも単純で、ありふれていて、彼好みの答え。
 好きだから、評価されなくても考える。
 好きだから、形にするため頭を捻る。
 好きだから、何度も何度も書き直す。
 好きだから、創作する。世界を、事象を、生命を。

 
 男が気づくと、そこは見慣れた玄関だった。考えることに夢中になるあまり、缶の中身は減っていない。古びたドアを静かに開け、中に入って深呼吸をする。ダイニングに掛かった小さな時計が、変わらず時を刻んでいる。部屋に響く、秒針の音。
 なんとなくだが、今なら続きが書けそうだ。
 靴を脱ぎ、手を洗う。自室に戻り、椅子を引いて腰を下ろす。

 

 早速書こう、そう思いながら、少し冷めてしまったブラックコーヒーを一口煽る。

 

 「やっぱ苦いな。」

 

 薄暗い部屋の中、キーボードを叩く音が響き出す。